「おお、川村君。こんばんは」
夫の会社の上司、部長の田中さんだった。
「部長!?どうしたんですか?」
夫は慌てて背筋を伸ばした。
「いや、近くを通ったから挨拶にね。奥様にもご挨拶したくて」
田中部長は夫の後ろから、私に会釈した。
私はすぐに笑顔を作った。
「まあ、部長さん。いつも主人がお世話になっております。ちょうど夕食の時間ですので、よろしければどうぞ」
「いえいえ、お邪魔しては」
「大丈夫です。たくさん作りすぎてしまって。ぜひ」
夫が「あ、いや、でも…」と言いかけたが、田中部長は「じゃあお言葉に甘えて」と靴を脱いだ。
夫の顔が真っ青になっている。
私はダイニングに戻り、すぐに田中部長の分の食器を用意した。
「どうぞ、召し上がってください」
田中部長は席に座り、料理を見て「美味しそうですね」と笑顔で言った。
肉じゃがを一口食べた田中部長の表情が変わった。
「これは…美味しい!奥様、料理上手ですね」
「ありがとうございます」
「いやあ、肉じゃがってシンプルだけど、こんなに優しい味に仕上げるのは難しいんですよ。私も料理するんでわかるんです」
田中部長はほうれん草のお浸しも食べて、「これも絶妙な味付けだ」と絶賛してくれた。
夫は愛想笑いを浮かべながら、「はは…そうですか」と力なく答えている。
田中部長が味噌汁を飲みながら、ふと言った。
「そういえば、さっき玄関で『犬も食わない』って聞こえたんですけど、誰の話ですか?」
空気が凍りついた。
夫は「あ、いや、それは…」と言葉に詰まっている。
私は笑顔で答えた。
「主人が、私の料理をそう言ったんです。つい数分前に」
田中部長の箸が止まった。
「え…この料理を?」
「はい。『お前が作った飯、犬も食わねえよ』と」
娘も小さく頷いた。
「パパ、そう言ったの。ママ、悲しそうだった」
田中部長の表情が一変した。
「川村君…」
「い、いや、あれは冗談で…」
「冗談?家族の前で、奥様が作った料理を侮辱するのが冗談?」
田中部長の声が低くなった。
「これだけ美味しい料理を作ってくれる奥様に、そんな言葉を投げかけるのか」
「すみません…」
「私は常々思っているんだ。家庭を大事にできない奴は、仕事もダメだってね」
夫は何も言い返せず、うつむいている。
「奥様、美味しい料理をありがとうございました。お嬢さんも、お母さんの料理は美味しいって言ってあげてね」
娘は「はい!ママの料理、大好きです」と笑顔で答えた。
田中部長は立ち上がり、私に深々と頭を下げた。
「川村君、明日会社で話がある」
そう言い残して、田中部長は帰っていった。
夫は青ざめた顔で固まっていた。
翌日、夫は会社から帰ってくると、放心状態だった。
「どうしたの?」
私が聞くと、夫は力なく答えた。
「部長に呼ばれて、1時間説教された。『家族を大切にできない人間に、重要な仕事は任せられない』って」
「そう」
「しかも、部長が他の上司にも話して…社内で『妻を侮辱する男』って噂になってる」
私は何も言わなかった。
「来月の昇進も、見送りになった。部長が『人間性に問題がある』って推薦を取り下げたんだって」
夫は頭を抱えた。
「ごめん…本当にごめん。あんなこと言うべきじゃなかった」
私は冷静に答えた。
「謝られても、もう信用できません」
「え?」
「あなたは子供の前で、私を侮辱しました。娘がどんな顔をしていたか、わかってますか?」
夫は何も言えなかった。
「離婚します」
「ちょっと待て!昇進がなくなったのに、離婚まで!?」
「昇進の話は関係ありません。あなたが家族を大切にしていないから、離婚するんです」
数週間後、離婚調停が始まった。
田中部長は証人として出廷してくれた。
「川村氏は、奥様が作った美味しい料理を『犬も食わない』と子供の前で侮辱しました。私は人として、これを許せません」
調停委員も「これは酷いですね」と呆れた様子だった。
結局、親権は私が取得。慰謝料150万円と財産分与で貯金の7割を獲得。
離婚が成立した日、田中部長から電話があった。
「奥様、お疲れ様でした。実は私、妻にも同じようなことを言って後悔した経験があるんです」
「そうだったんですか」
「だから川村君の言葉を聞いた時、許せなかった。どうか、これからお幸せに」
「ありがとうございます」
それから半年。
私は娘と穏やかに暮らしている。
料理を作ると、娘はいつも「ママの料理、世界一美味しいよ」と言ってくれる。
元夫は会社で評判を落とし、結局左遷されたと聞いた。
自業自得だ。
家族を侮辱する人間には、必ず報いが来る。
因果応報。
私は今、娘と笑顔で食卓を囲める毎日に、心から感謝している。


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