「お前が悪いんだろうが!」
夫の怒鳴り声と共に、リモコンが壁に叩きつけられた。
私は34歳。夫と結婚して5年、4歳の娘がいる。でも今、私はこの家から逃げ出したいと毎日思っている。
夫は些細なことで怒鳴る。
夕飯が気に入らない、部屋が散らかってる、俺の言うことを聞かない。理由は何でもいい。夫はただ怒鳴りたいだけだ。
「お前は本当に使えないな。俺の母さんはもっとちゃんとしてたぞ」
「お前みたいな馬鹿と結婚した俺が不幸だ」
「お前の料理はまずい。金の無駄」
毎日、人格を否定される。
最初はこんなじゃなかった。付き合ってる時は優しくて、結婚したら幸せになれると思っていた。
でも結婚して半年で変わった。
最初は言葉の暴力だけだった。でもエスカレートして、物を投げる、壁を殴る。そしてある日、私も殴られた。
「お前が俺を怒らせるからだ」
夫は謝らなかった。私のせいだと言った。
義母に相談したことがある。
「嫁が悪いんじゃないの?息子がそこまで怒るってことは、あなたに問題があるのよ」
義母は夫の味方だった。
友達にも相談できなかった。「夫婦喧嘩でしょ」って軽く見られそうで。
娘の前でも夫は怒鳴る。娘は怯えて泣く。それを見ても夫は「お前のせいだ」って私を責める。
このままじゃダメだ。娘も私も壊れてしまう。
ある日、区役所の女性相談窓口のポスターを見た。
勇気を出して電話してみた。
しかしこの後、予想外な結末に私は苦渋の決断をした。
【続き】
「DVの相談をしたいんですが…」
相談員の女性は優しく話を聞いてくれた。そして証拠集めを始めるようアドバイスされた。
それから私は密かに準備を始めた。夫が怒鳴る時は録音、殴られた時の痣は写真、病院の診断書。全て記録した。
準備を進めていたある日、夫の会社から電話があった。
「ご主人が倒れて病院に運ばれました」
病院に駆けつけると、夫は過労で倒れていた。
医師が言った。
「極度のストレスと睡眠不足です。このままでは命に関わる」
夫の上司が来て、私に頭を下げた。
「申し訳ありません。実はご主人、会社で相当なパワハラを受けていまして…」
初めて知った。夫は会社で壮絶なパワハラを受けていた。理不尽なノルマ、毎日の罵倒、サービス残業。上司からの人格否定。
夫は誰にも言えず、そのストレスを家で私に向けていたのだ。
「それでも許せない」
私は心の中でそう思った。
医師が言った。
「彼自身も被害者です。治療が必要です。精神的に追い詰められていたんでしょう」
夫が目を覚ました。
病室で、夫は初めて泣きながら謝った。
「俺、おかしかった。会社で毎日罵倒されて、頭がおかしくなってた。お前に当たって…本当にごめん。助けて」
夫の涙を見て、私は一瞬迷った。
これは夫の責任逃れなのか、本当に病気なのか。
夫は続けた。
「治療を受ける。会社も辞める。もう二度と暴力は振るわない。だからやり直させてくれないか」
病室は静かだった。
私は深呼吸をして、はっきりと言った。
「離婚します」
夫の顔が凍りついた。
「え…?」
「あなたが会社でパワハラを受けていたことは気の毒だと思う。でも、それは私や娘を傷つけていい理由にはならない」
「でも、俺は治療を受けるって…」
「5年間、私は毎日あなたに罵倒されて、殴られて、娘の前で怯えていた。娘もあなたを怖がっている。それは消えない」
夫は泣いていた。
「頼む…もう一度チャンスを…」
「あなたがどんな理由を抱えていても、私には関係ない。私と娘を守るのは私の役目。あなたを救うのは、私の役目じゃない」
私は立ち上がった。
「弁護士から連絡が行きます。離婚調停の準備をしてください」
「待ってくれ!」
夫が叫んだけど、私は振り返らなかった。
病室を出ると、涙が溢れた。
情けをかけたい気持ちもあった。でも、娘の怯えた顔を思い出すと、絶対に戻れないと分かった。
翌週、弁護士に全ての証拠を提出した。
録音、写真、診断書。そして夫が会社でパワハラを受けていたという情報も伝えた。
弁護士は言った。
「夫がパワハラの被害者だったとしても、あなたへのDVは正当化されません。むしろ、彼は適切な助けを求めず、弱い立場のあなたに暴力を向けた。それは加害者の責任です」
その言葉で、私の迷いは完全に消えた。
調停が始まった。
夫は「治療を受けるから」「会社も辞めたから」と何度も訴えた。
でも調停委員は冷静に言った。
「あなたがストレスを抱えていたことは理解します。しかし、配偶者への暴力は犯罪です。被害者に『許してほしい』と求める権利はありません」
最終的に、親権は私、慰謝料400万円、養育費月6万円で離婚が成立した。
夫は最後に言った。
「本当にすまなかった。いつか娘に会える日が来たら、心から謝りたい」
私は何も答えなかった。
それから2年が経った。
私と娘は新しいアパートで穏やかに暮らしている。
娘は「パパ怖かった」と言わなくなり、笑顔が増えた。
友人から聞いた。元夫は治療を受けて、新しい仕事に就いたらしい。パワハラのない職場で、真面目に働いているとか。
「元夫さん、変わったみたいだよ。会ってみたら?」
友人は善意で言ってくれた。
でも私は首を振った。
「彼が変わったかどうかは、私には関係ない。私と娘の人生に、もう彼は必要ない」
夫がどんな事情を抱えていようと、私を傷つけた事実は変わらない。
被害者である私が、加害者を救う義務はない。
私は自分と娘を守った。それだけで十分だ。
今、私たちは自由で、安全で、幸せだ。
それが全て。
因果応報。
暴力を振るった代償は、家族を失うこと。
そして私は、新しい人生を手に入れた。



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