「お前が我慢すればいいだけだろ」
夫が言った。義母との同居話が出て3ヶ月。
「でも、私たちの生活もあるし…」
「親孝行も知らないのか。母さんは一人で寂しいんだぞ」
「お義母さんには兄弟もいるし…」
「長男の嫁なんだから当然だろ。嫌なら出て行けよ」
私は5歳の息子を抱きしめた。
翌週、義母が「下見」として我が家に3日間泊まりに来た。
「この家、狭いわね。もっと片付けなさいよ」
「冷蔵庫の中、賞味期限切れだらけじゃない」
「○○くん(夫)、こんな適当な料理食べさせられて可哀想」
夫は黙って聞いていた。
私が何か言おうとすると「母さんの言う通りだよ」と言った。
その夜、息子が熱を出した。39度。
「病院連れて行かなきゃ」
「夜間救急?大げさね。冷やしておけば治るわよ」義母が言った。
「でも心配だから…」
「あなた、神経質すぎるのよ。だから○○くんも苦労してるのね」
夫は何も言わなかった。
結局、私一人で息子を夜間救急に連れて行った。
同居の話は着々と進んだ。私の意見は一切聞かれなかった。
しかし1ヶ月後、夫が私に土下座して謝る事になるとは、まだこの時は誰も知らなかった…。
【以下結末】
そして、義母との同居が始まった。
地獄の日々だった。
朝6時に起こされ、義母の朝食を作らされる。
「味が薄い」「冷めてる」「まずい」
毎日何かしらダメ出しされた。
洗濯物の干し方、掃除の仕方、息子の躾。すべてに口を出された。
「だからあなたはダメなのよ」
義母の口癖になった。
夫に訴えても「母さんは昔の人だから」「もう少し我慢してくれよ」と取り合わない。
息子は義母を避けるようになった。
保育園から帰ると、すぐに自分の部屋に逃げ込む。
「おばあちゃん、怖い」
小さな声で私に言った。
私も限界だった。体重は5キロ落ち、常に頭痛がする。
夜、布団の中で泣く日が増えた。
同居から1ヶ月が経った、ある土曜日の午後。
インターホンが鳴った。
「はい」と出ると、見覚えのある声が聞こえた。
「あ、弟くん家?兄貴だけど」
夫の兄、つまり義兄だった。
夫は義兄とあまり仲が良くない。
「兄さんは親不孝で冷たい」といつも言っていた。
リビングに通すと、義兄の奥さんもいた。
義母の顔色が変わった。
「あら、急にどうしたの?連絡もなしに」
「母さん、元気そうだね」
義兄は穏やかに微笑んだ。でも、その目は笑っていなかった。
「弟、ちょっと話がある」
「兄さん、今忙しいんで」
夫は明らかに迷惑そうな顔をした。
「いや、これは大事な話だ。弟嫁さんにも聞いてもらいたい」
義兄の奥さんが私を見た。その目には、何か深い同情のようなものが浮かんでいた。
「実はね、弟嫁さん。謝らなきゃいけないことがあって来たんだ」
「え?」
「母さんのこと。本当のことを話さないまま、あなたに押し付けてしまって。ごめんなさい」
義兄の奥さんが深々と頭を下げた。
「どういうことだ、兄さん」
夫が険しい顔で聞いた。
「母さんはね、3年前まで俺たち家族と同居してたんだ」
「…知ってるよ。兄さんが母さんを追い出したんだろ」
「違う」
義兄の声が低くなった。
「母さんの嫁いびりが酷すぎて、妻が心療内科に通うことになったんだ」
空気が凍りついた。
「朝から晩までダメ出し、人格否定、子供の躾への過度な干渉。『息子の嫁のくせに』『もっと気を利かせなさい』『あなたみたいな嫁で息子が可哀想』…毎日、毎日」
義兄の奥さんが震える声で続けた。
「私、2回救急車で運ばれました。過呼吸で。娘は夜泣きするようになって、私が泣いてると一緒に泣いて…もう限界だったんです」
私の心臓が激しく打った。
それは、今の私と全く同じ状況だった。
「そんな…母さんが?」
夫の声が上ずった。
「お義母さん、私たちと同居してる間、毎日言ってましたよ」
義兄の奥さんが義母を見た。
「『本当は長男の家に行くべきだった』『次男の嫁は使えない』『早く長男の家に行きたい』って」
義母の顔が真っ赤になった。
「そんなこと…」
「言いましたよね。私、日記につけてますから。全部、証拠があります」
義兄の奥さんの声は静かだったが、芯が通っていた。
「俺は母さんに何度も話した。『妻を大切にしてくれ』『もう少し距離を置いてくれ』って。でも聞かなかった」
義兄が続けた。
「最後は医者から『このままでは奥さんが壊れる』と言われて、母さんに実家に戻ってもらったんだ」
「それなのに、お前は俺のことを『親不孝』『冷たい』と責めた。電話でも、親戚の集まりでも、散々言っただろう」
義兄が夫を見据えた。
夫の顔が青ざめた。
「で、でも…」
「俺は黙ってた。母さんのこと、悪く言いたくなかったから。弟がいつか気づくと思ったから」
「でも」
義兄の奥さんが私を見た。
「あなたの顔を見て…わかったんです。同じ目をしてる。私が追い詰められてた時と同じ」
「次はあなたの番だと思って黙ってたけど、良心が痛んで。このまま黙ってたら、あなたも私と同じように壊れちゃう」
涙が溢れた。
誰かが、初めて私の苦しみを理解してくれた。
「兄さん…なんで、もっと早く教えてくれなかったんだ!」
夫が立ち上がった。
「教えた。何度も」
義兄の声は冷たかった。
「でもお前は『兄さんの嫁が悪い』『母さんは優しい人だ』と聞く耳持たなかった。俺の妻が泣きながら訴えても、『そっちの躾が悪いんじゃないか』とまで言っただろう」
「あの時のあなたの言葉、一生忘れません」
義兄の奥さんが夫を見た。
「『兄貴の嫁は神経質すぎる。母親を悪者にするなんて最低だ』って」
夫の顔から血の気が引いた。
「因果応報だよ、弟」
義兄が言った。
「お前が望んだ通り、母さんと同居した。そして今、お前の嫁が俺の嫁と同じ目に遭ってる。これが現実だ」
「私…私は…」
義母が震える声で言った。
「黙ってください」
義兄の奥さんが、初めて義母に厳しい口調で言った。
「私たちの同居が終わって、『やっと自由になれる』と思いました。でも、お義母さんは次のターゲットを探してただけだった」
「あなたは変わらない。変わる気もない。自分が正しいと信じて、嫁をコントロールしようとする」
夫が義母を見た。
その目には、怒りと失望が混ざっていた。
「母さん…俺を、騙してたのか」
「違う、違うのよ。私は…」
「十分だ」
夫の声が震えた。
「兄さん夫婦を責めて、妻を苦しめて…俺は最低だ」
夫が義母に向き直った。
「母さん、今日中に実家に帰ってください」
「え…」
「もう、無理です。俺、何も見えてなかった」
その日、義母は大量の荷物を持って実家に戻った。
最後まで「あなたたち、親不孝者」と叫んでいた。
義母が出て行った夜。
夫が正座して、私の前に座った。
「ごめん」
夫は床に手をついた。
「本当に、ごめん」
土下座だった。
「お前の言葉、ずっと無視してた。母さんばかり信じて…お前を守らなかった」
夫の声が震えていた。
「兄さんの話を聞いたとき、全部わかった。お前がどれだけ辛かったか。息子がどれだけ怖かったか」
「もう遅いよ」
私は言った。
「信じられない。あなた、私の話を一度も聞いてくれなかった」
「わかってる。わかってる…」
夫は泣いていた。
「でも、今からでも…もう一度、やり直させてくれないか」
私は何も答えられなかった。
ただ、心の奥で、小さな扉が少しだけ開いた気がした。
「時間をちょうだい」
私は言った。
「考えさせて」
夫は深く、深く頭を下げたままだった。
その姿を見ながら、私は思った。
やっと、終わったんだ。
長い、長い戦いが。
後日、義兄の奥さんからメッセージが来た。
「あなたが笑顔を取り戻せますように。辛かったら、いつでも連絡してね」
私は初めて、義家族の中に味方ができた気がした。
そして、夫との関係を、もう一度だけ、考えてみようと思った。
息子の笑顔が戻ってきた。
それが何より嬉しかった。
【完】
コメント