「あいつ、やっぱりそんなこと言ってるの?土曜日、私が弟を連れて行くわ。任せて」
そして土曜日。
義姉が朝早くに我が家に来て、半ば強引に夫を車に乗せた。
「出産前の夫婦向けセミナーがあるから」
夫は不満そうだったが、義姉には逆らえない。
病院に着くと、担当医師と何人かの看護師が待っていた。
みんなの表情には「やってやるぞ」という決意が見えた。
「今日は出産の実際について、体験的に学んでいただきます」
小さな会議室には、他の妊婦夫婦も数組いた。
みんな真剣な表情。うちの夫だけがスマホをいじっている。
講座が始まった。
医師が説明する。
「出産の痛みは、人間が経験する中で最も強烈な痛みの一つです。骨折が痛みレベル7だとすると、出産は15とも言われます」
夫が小さく「へえ」と言った。信じてない様子。
「では実際に体験していただきます」
医師が奥から機械を運んできた。
「これは出産痛シミュレーターです。男性に陣痛の痛みを疑似体験させる医療機器です」
夫の顔から笑みが消えた。
「え、マジで?」
「はい。皆さんに体験していただきます」
他の夫たちが順番に体験し始めた。
最初の人は10%の強度で「うわ、これマジできつい」と顔を歪めた。
次の人は20%で「もう無理です」。
夫の番が来た。
医師が丁寧に電極を腹部に装着する。
「最初は弱めからですよ」
「べ、別に平気っすよ」
夫は強がった。
医師がダイヤルを回した。
「これは陣痛の初期段階、約10%です」
「へえ、こんな感じか。大したことないじゃん」
夫は余裕の表情。
でも30秒経つと「ちょっと、結構痛くない?」
額に汗が浮かび始めた。
「これはまだ初期です。少し強度を上げますね。20%に」
「あ、いや、もういいかな」
「いえいえ、ほんの少しだけ。実際の出産はこれの何倍も続きますから」
医師はダイヤルを回した。
夫の表情が一変した。
「く、これマジで…」
夫は椅子から立ち上がって歩き回り始めた。
「動くと少し楽になりますか?実際の陣痛でも同じです」
「も、もういいです」
「まだ20%ですよ。30%に上げますね」
夫の顔から血の気が引いた。
冷や汗が滝のように流れ、膝が震え始めた。
「やめてください…お願いします…」
「でもこれまだ30%です。実際は70%、80%の痛みが10時間以上続くんです」
義姉も別のシミュレーターを装着した。
「私も体験してみる」
40%で義姉も「これは…きつい…」
医師は夫のダイヤルを50%まで上げた。
夫はもう立っていられず、床に膝をついた。
「やめて…もう分かったから…ごめんなさい…」
顔は青ざめ、シャツは汗でびっしょり。
他の夫たちも真剣な表情で見ている。
医師はゆっくりとダイヤルを戻した。
「これが女性が出産時に経験する痛みの一部です」
夫は震える手で汗を拭った。
「こ、こんなの耐えられない…」
その時、医師が私を指さした。
「この方は薬剤師として、毎日妊婦さんの辛さを理解しながら仕事をされています。そして間もなく、ご自身がその痛みを経験します」
夫は目を大きく開いて私を見た。
恐怖と後悔の色。
「ごめん…本当にごめん…」
夫はその場で土下座した。
「俺、最低だった…本当にごめん…」
講座の後、詳しい説明があった。
陣痛は平均12時間続くこと。
休む暇もなく痛みが襲ってくること。
赤ちゃんが産道を通る圧迫感。
全ての説明に、夫は真剣にメモを取っていた。
家に帰る車の中、夫は黙っていた。
家に着くと突然「掃除する。お前は休んでて」と言い出した。
その日から夫は変わった。
家事を全て引き受け、出産の本を読み漁り、マッサージの練習を申し出た。
「本当にごめん。お前がどれだけ強いか分かってなかった」
夜、ベッドで横になっていると、夫がお腹に手を当てた。
「これからは絶対に支える。約束する」
2週間後、予定より早く陣痛が始まった。
「10分間隔くらいの痛みがある」
夫は驚くほど冷静だった。
「分かった。タクシー呼ぶ。大丈夫、一緒にいるから」
14時間の陣痛。
夫はずっとそばにいて「頑張れ」と励ましてくれた。
途中、看護師に「今、どのくらいですか」と聞いているのが聞こえた。
「今は60%くらいかな」
その言葉を聞いた夫の顔が青ざめた。
「お前、すごいよ。俺、50%で30秒も耐えられなかったのに」
夫は涙目だった。
そして赤ちゃんが生まれた。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
夫は号泣していた。
「本当にすごい。ありがとう」
医師がウインクした。
「いい旦那さんになりましたね」
1年後。
息子は健康に育ち、夫は育児に積極的だ。
先日、夫の同僚夫婦が遊びに来た。
「つわりって大変なの?」と同僚が軽く聞くと、
夫は真剣な表情で「マジで大変。想像を絶する痛みだよ」と答えた。
「お前、経験したの?」
「ああ、シミュレーターで。50%でギブアップした。もし機会があったら体験してみろ。人生観変わるから」
同僚の奥さんは感心した顔で夫を見ていた。
あのシミュレーター体験が、私たち夫婦を救った。
「陣痛なんて大したことない」
今では夫婦の笑い話だ。
経験できないことでも、理解しようとする気持ちが大切。
夫も私も、あの日学んだ。
これからも幸せな家族でいる。



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